やさしいテクノロジー

20051211日     吉田寛

 

『ナウシカ』の映画で、「風の谷」の老人がクシャナに次のようなことを言う。「あんたらは火を使う。そりゃー、わしらもちっとは使うがの・・・。わしらは水と風のほうがエエ・・(だいたいの感じで)」。谷のひとびとは風車と人力のほか、狩猟や照明などこまごましたところで石油(?)を用いている。これに対してクシャナ等は、戦車や巨大航空機、銃器類などの重火器を用いてこの谷を占領したのである。ここで、老人はテクノロジーを「水と風」に象徴される「やさしいテクノロジー」と「火」に象徴される「高圧的なテクノロジー」に分けて考えているように見える。

 

この区別を掘り下げて、「やさしいテクノロジー」という概念を概略的にでも特徴づけることがこのエッセーの目標である。もっとも、この概念はただふと私の中にあるような気がしたというだけであり、この概念がそもそも矛盾なく概念として成立するのか、実在する何らかの事柄に合致するのか、そもそも合致し得るのか、そしてその概念を提示することがどのような意味をもつのか、それはまだまったく明らかではない。もし私に十分な運と力があれば、この概念は現代社会を導く重要な概念として姿を得るかもしれないし、そうでなくともそのような重要な概念にたどり着くための手がかりとなるだろう。運がないか力が足りなければ、いつものように単なる妄想として、私と読者のいくばくかの時間と心を奪って、観念の矛盾と混乱の海へと消えていくだけであろう。

 

現代テクノロジーと人間性を考えるときに、「やさしさ」はしばしばキーワードとなる。「自然にやさしい」「身体にやさしい」「ユーザーにやさしい」などの表現は、コマーシャルのキャッチ・コピーとしても用いられる。時代が、テクノロジーに「やさしさ」を求めているのは明らかである。だが、テクノロジーにとってこの「やさしさ」がどういうものなのかの十分な説明は今のところだれも供給できていないのではないか。皆、イメージで「やさしさ」を求めているだけのようにも見える。もしこのイメージに確固とした形を与えられるはずなのに誰も与えていないからということなら、それは技術に関わる哲学者の怠慢であろう。ここでは、テクノロジーにとっての「やさしさ」概念について、現代テクノロジーの方向を占う重要な指針として注目し、これを言葉として具体的に活用可能な形で抽出し整理しようとする。

 

まずはイメージ。京都近郊の山道。ふと気がつくと、12月の落葉に埋もれた木の階段。とくに歩きやすいわけでもない。とくに安全なわけでもない。テクノロジーというほどでもない、ちょっとした工夫。だが、この階段はごく素朴にやさしい。

 

高級ホテルの玄関。靴音が、カツーン、カツーンと響く。きれいに磨かれた大理石の階段。デパートに入ると、吹き抜けを見下ろすぴかぴかのエスカレータ。カートや車椅子の人にも対応できるテクノロジー。エレベータの前にはスタッフが待っている。だが、なぜか「やさしさ」を感じない。

 

この階段の例ですこし切り口をさぐってみよう。

山道の階段をやさしいと感じ、これに較べて本来ひとを迎える場所であるホテルやデパートの階段を高圧的に感じる。それはデザインの問題だろうか。それとも素材の問題? 例えば、こじんまりと木でできた階段と、強固な石や鉄の複雑な構造体の対比だろうか。使用感みたいなところに違いがあるのだろうか。あるいは、デパートやホテルに対しては豊かな商品やサービスに惹かれつつも、その背後に巨大資本による収奪システムであるという本体を想像するということだろうか。テクノロジーの「やさしさ」にとって何か本質的な問題なのだろうか。

 

いくらか踏み込んだ問いが出てきたところでその答えは放置して、今度は別の角度から手がかりを探ってみる。一般に、あるテクノロジーが「やさしい」と言われるのはどのような場合だろうか。

 

例えばフロンガスを使わないエアコンが「自然にやさしい」と言われたりする。エアコンは環境の状態を変える力を持っていて、人間が生活しやすい環境を部分的に作ることができる。他方、そのために自然のもとの状態から変化させ、例えば巡りめぐってオゾン層の破壊を引き起こすかもしれない。このような副作用を引き起こさないテクノロジーのありかたを「自然にやさしい」と言うなら、それは「自然を変化させない」というのではない。これは「人間が生きていく上でリスクのある状態を作り出さない(抑制する)」といういみで「人間生活にとってやさしい」ということであろう。

 

「身体にやさしい」もだいたい似たようないみで使われるように思われる。例えば、あるシャンプーは「身体にやさしい。安心して使える。」と言われる。この含意は、シャンプーは一般に髪をきれいにするという効能に加えて身体によくない副作用を持っているが、このシャンプーは副作用を抑えてあります、ということだ。

 

二つの例で共通するのは、副作用としてのリスクを抑えるという点である。では、「ユーザーにやさしい」はどうだろうか? これは、「ユーザー・フレンドリー」をキーワードに、現代のパソコンのシステム設計などを主導する考え方である。専門家でないユーザーでも安心してシステムが使える設計というほどのいみだ。これもまた、便利なシステムにつきもののコストやリスクという副作用――システムを時間をかけて勉強したりする必要や誤ってシステムを破壊してしまったり仕事に支障がでたりする危険――を抑制するということである。

 

そろそろこの事例についてまとめたいところだが、その前にテクノロジーの一般的な構造を確認しておかなければならない。ある技術はある程度特化された目的をもつ。エアコンだったら部屋の温度を快適に保つこと。シャンプーだったら髪の汚れを落とすこと。パソコンは汎用性があるが、あるユーザーにとっては例えば仕事の効率を挙げること。などなど。これらをその技術の「効能」と呼んで差し支えなかろう。さて、どんな技術でも同時に最終的な目的を持つ。ある技術の効能は、目的論的な連鎖をたどって、全体的な目的に寄与するという効能の一部をなす。最終的な目的をどこに置くか(置くべきか)は議論が分かれるかもしれないが、たとえばその技術の利用者の幸福、あるいは社会全体の幸福などを、より上位の目的として想定できる。さしあたりこれを「人間的幸福」と呼び、これについてのプラスの効果を「人間的効能」と呼ぶことにしよう。シャンプーが髪の汚れを落とすことは、その人の生活を快適にし、心を明るくし、そして最終的にはその人の幸福に、ほんのすこし寄与する。だから、シャンプーには人間的効能がある。エアコンやパソコンもまた然りである。

 

あるテクノロジーが「やさしい」と言われるのは、人間的効能に対するデメリット、すなわち副作用を抑えてあるといういみである。「やさしさ」は特化された効能については、おそらく関わらない。「やさしい」シャンプーが仮にまったく洗浄力がなかったとしても、それはそもそも「シャンプー」と名乗れるかどうかが問題にされるとしても「やさしさ」が問題になることはないだろう。また、「やさしさ」は人間的効能のトータルを問題にするものでもないだろう。よく効く風邪薬だが胃を甚だしく痛める「ケミカル」って感じの薬よりも、あまり効かないが副作用はない漢方薬的な風邪薬を「よりやさしい」と人は呼ぶだろうから。「やさしさ」の判定基準は、人間的効能を参照するが、その総量を問題にするのではなく、それについてマイナスの影響を与える副作用があるかないか(どの程度か)を問題にしているのである。

 

<テクノロジーが「やさしい」=そのテクノロジーは副作用を抑えてある>。どうやら、一般にはこのようないみでテクノロジーの「やさしさ」が理解されているらしい。私はこれに満足していいだろうか?

 

角度を変えて考えてみよう。副作用を抑えてある。それだけのことを、なぜ「やさしい」と言いたがるのだろうか? なぜ、それがキャッチ・コピーとして有効なのだろうか? それはもちろん、われわれがテクノロジーに何を求めているか、どんなイメージを理想として持っているのかに依存して説明されることが期待されるだろう。コマーシャルは、その商品の実際を手がかりにして、実際以上にその商品をよくイメージさせよう、場合によっては実際の商品とは似ても似つかぬすばらしいイメージをその商品になんとか結び付けようとする。「やさしい」という言葉は、私にとっては、そしておそらく一般の人の言語においても、「副作用がすくない」以上のいみをもっている。だからこそ、コマーシャルの世界では「副作用がすくない」と言うべき時に「やさしい」が言われるのだろう。心配なのは、一般に「やさしい」がそのようなやせ細ったいみでのみ理解されるようになってしまったときであるが、それを心配するのは本稿の道すじから逸れてしまうだろう。

 

では一般に、「やさしさ」の本来のいみはなんだろうか? これについて、哲学者・倫理学者はほとんどまったく考えていなかった。「真理」とか「善」「知」とかについてさんざん頭を巡らせるばかりで、こんな重要で身近な概念についてはほったらかしだったのである。欧米のことはともかく、日本の哲学者は今でも欧米で話題になった「正統的な」「哲学的な」テーマを論じる(と言っても、向こうの議論を焼きなおすだけ)ばかりで、自分の生活の中からテーマを捉え、自分の頭と身体で考える習慣がないのだから仕方ない。私もやはりそうだった。学校・学会などではそういう問題の切り口になってしまいがちなのだ。教科書に与えられた例題ばかりやって、実際の問題に取り組むことのない高校生みたいなものだ。

 

で、「やさしさ」の本来のいみ? そんなことは、それだけで一冊の本になるテーマだ。だけど、「これだけは言える」というポイントをいくつか挙げておいて、それから「やさしいテクノロジー」に戻ろう。

 

<ここで中断。以下200619日>

 

「やさしさ」は人に対する人のふるまいや態度についての概念である。私がやさしさを感じるのは、例えば仕事で疲れきって帰ってきたときに、お茶・風呂・ごはん・あるいは休息など、そのときどきの必要を理解して応えてくれるとき。それは、単に私自身のすでにもっている欲求や希望を満たすだけではなく、ときに私自身も気づいていない私の喜びを教えてくれたり、ときに私が我慢するべきこと、諦めるべきこと、方向を転換するべきことを示唆してくれるようなありかただと思う。

 

ためしに『広辞苑』をひいてみた。

現代の用法としては、C「おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。」

D「悪い影響を及ぼさない。ex.肌にやさしい洗剤。」、E「情深い。情がこまやかである。」、こんなところであろう。上代の用法から見てみると、「優しい」は「恥しい」とも書き、@「身も痩せるように感じる。恥かしい。」、A「周囲や相手に気を使って控えめである。」、B「さし向かうと恥かしくなるほど優美である。」とある。

 

このことばは、もともと自分自身のある受動的な気持ちのあり方を表現しており(@)、さらに対象の中から見てもし自分でその人であればそう感じるような状態(立ち振る舞い)を表現し(A)、さらにBでは対象の外から見て自分にそう感じさせるような相手の状態(立ち振る舞い)を指すようになったと思われる。実際の語源的な因果関係はともかく、「やさしさ」の意味空間は、このように相手や社会との人間関係の中で、相手が優勢または自由な状態にあり自分がそれに遠慮しているという構図のバリエーションである。F「けなげである」、「易しい」と書くG「簡単である。――。わかりやすい。」も、相手としての主人、ユーザー、読者に従う、相手を思いやるという構図は確かに見てとれる。Bの用法だけは現代的に考えると「相手」にやさしさを帰属しているようであるが、自分が相手を尊重したくなる気持ちを相手ないし相手のいる状態を主題にして表現するケースと考えられる。

 

ところで、「やさしさ」ということばについて、われわれの社会は、時代に応じてニュアンスを変化させてきたように思われる。即ち、このことばはもともとある受動的な状態やそういう状態をつくりがちな性質について必ずしも肯定的ではないニュアンスで用いられたが、現代では古い意味もなお残しつつ、相手の存在や自由を尊重し相手が自由でのびのび安心であるような状態を作り出す(維持する)肯定的かつ能動的な能力というニュアンスを強めているように思われる。私が先にあげた「やさしさ」の事例もだいたいこのいみにうまくあてはまる。

 

「やさしいテクノロジー」に戻ろう。先に、副作用がないことと関係があるのではないかと推察した。副作用は確かに使用者の安心(ときに自由や存在)を奪うものだから、副作用がないことは確かに服用者に対してやさしいことである。

 

しかし、足りない。すなわち、現代的な用法における「能動的な能力」という点が感じられない。副作用のない薬を「やさしい」と表現することは、確かに「やさしさ」の意味空間の端の方には入っているかもしれないが、私がテクノロジーに求める「やさしさ」とは一致していない。私は、相手の自由や存在を妨げないだけでなく、もっと能動的に相手を自由にのびのびとあることへ助けとなるような、そういうやさしさを求めているのだ。おそらくは、ひとびとがテクノロジーに求めるやさしさも多くの場合このような強い意味での「やさしさ」であろう。だからコマーシャルでは、強い意味ではやさしくもない商品が、実際以上の、即ちまるで能動的に消費者に安心や自由を与えてくれるような力をもつイメージを与えることが期待されて、このことばが用いられるのであろう。

 

 

私の求める、そして社会が暗に求めていると思われる「やさしいテクノロジー」の「やさしさ」について、ここまでで分かったことをまとめておきたい。

●あるテクノロジーの「やさしさ」は、それがそのテクノロジーが相手とする人(ユーザー、影響のある社会)に対してもつ力として理解される。

1:その力は、そのテクノロジーが向かい合う人を安心で自由な状態にすることに寄与するものであるという方向を持つ。

2:その力は、そのような状態を作り出す潜在性であるが、単なる傾向性とは区別されて、ある能動性を持っている。

 

1は、ひとまずよかろう。2の方を取り上げてみたい。この、「能動的」という点は重要である。『広辞苑』の用法Eに見られ、私の挙げた事例でも言及したが、「思いやる」に通じるこの側面は、現代では「やさしさ」の重視されるべき特徴とみなされている。単に邪魔しないだけ、単にことを荒立てないだけ、たんに穏やかなだけでは、現代では「やさしい」とは言われないだろう。例えば、「それは『やさしい』のではなく『臆病』なだけでしょ。本当は情のない冷たい人なんだよ。」という文が違和感なく作られるだろう。

 

ところで、この「思いやる」ということは、人間、少なくとも自分自身が心情を持ち、かつ相手の心情を思い浮かべる能力のある者にしかできないことだと見なされるだろう。ここでは、意識や感情があり、かつ世間的な常識と相手に対する知識とがあり、自分と相手の視点を区別しつつも想像力でそのギャップを越える能力が要求される。だが普通にわれわれの期待するレベルでは、テクノロジーと言ったときに思い浮かべる機械や薬品などのような人工物自体がこのような能力を持つとは考えられないだろう。

 

だが、どうやらテクノロジーにはこのような能力を前提とする「やさしさ」が求められるのだ。これは、安心で自由な生活を求める気持ちに引きずられたカテゴリー・ミステイクによる混乱か、あるいはたしかな内容はあるもののその比喩的な表現となっているのだろうか?

 

ここで私は、「やさしいテクノロジー」という表現は、確かに比喩的な要素はあるものの、本質的には文字通りの表現内容をもっていると考えてみたい。すなわち、この表現はカテゴリー・ミステイクでもなければ単なる比喩でもない。テクノロジーは、単に人を妨げないことができるばかりか、単に使用者のニーズを満たす効果を持つばかりか、使用者のニーズを発掘したりあるいは断念させたりして導いてくれるような「思いやり」を持つことができる。そう考えてみよう。

 

すると、「テクノロジー」が何であるか、それが問題になってくるだろう。「やさしさ」に効果だけでなく心の能動性を認めることを確認した。また、テクノロジーが「やさしさ」をもちうると考えることにした。そこで「テクノロジー」は、使用者に一定の欲求がありそれを単に満たす効果を持つ人工物として捉えるのでなく、新しい欲求に気づいたりときにあきらめたりしつつ生活しているわれわれに対して「思いやり」のような能動的な心の作用を持った存在として捉えることになる。

 

テクノロジーは技術である。特に、現代の高度に科学的な知識に支えられ、高度に発達した産業社会を支える技術や技術を作り出す方法の知識(工学)のことを指して、伝統的な技術――「わざ」――とは区別して、「テクノロジー」と言う。テクノロジーとは、考えてみれば当たり前のことだが、機械や薬品というモノを指すことばではなく、機械や薬品を作り出す力のことである。

 

力はやさしさを持ちうるか? より正確には、力にやさしさを帰属することはできるのか? 

「やさしいことば」と言うことがある。このとき、われわれはやさしさをあることばに帰属しているわけではないと思われる。「あの時、君はやさしいことばをくれたね。」と言うとき、私はことばづらを問題にしているのではなく、そのことばを発した時の相手のこころがやさしい状態にあったことを言いたいのだ。もちろん、ここでのやさしさは、強い意味でのやさしさだ。たんにわずらわしくないことばを「やさしいことば」とは普通言わない。

類比的に考えてみよう。ちょっとした振る舞いにやさしさを感じることはある。荷物が重くて一人では階段を上がれない。そこで手伝ってくれるという行為。それは、「やさしいことば」にも似て、私を力づけ、自由で安心した状態へと手助けしてくれる。「やさしい振る舞い」「やさしい行為」ということができるだろう。このとき、私はこの行為自体にやさしさを帰属しているのではなく、その行為を生み出した相手の力、すなわち行為者のこころを問題にしているのだ。

 

やさしさは、こうして行為の源泉としての力に対して帰属されうる。表現も言語行為としてまた一つの行為であるから、そのことばを生み出した力としての発話者のこころにやさしさが帰属されるのである。やさしさの帰属先がことばそのものでなくそれを生み出す力としての言語行為の主体であることは、発話媒介行為を考えてみれば明らかであろう。同じやさしさを別のトークン(発話トークンでも行為トークンでも)で発揮しうるだろうから、そこでどのような表現でやさしさを表そうか迷ったりすることはしばしばあるだろう。

 

テクノロジーは、特定の人工物やシステムを作り出している力である。テクノロジーの作り出す人工物は、その人工物を使ったり、人工物とともに生活しようとしたりする「相手」を持っている。これについて、悲しいことに現代社会にはまだ親しみやすいことばが存在しない。ことばはあとで提案するとして、さしあたり「人工物享受者」、とくに問題のないときは「ユーザー」とでも呼んでおこう。ある人工物享受者はある人工物に「やさしさ」を感じる。これは、あることばの聞き手がそのことばにやさしさを感じるのと同様に、その人工物を作り出した力――すなわち、テクノロジー――にやさしさを感じていると考えられる。このようにして、テクノロジーはやさしさを持ちうる。「やさしいテクノロジー」という表現は、そのテクノロジーがやさしさを持っていることを表現するのであり、しかもそれは先に確認したように強いいみでの「やさしさ」についてもあてはまりうるのである。

 

実は、このような「やさしさ」を帰属しうる「テクノロジー」概念は、技術者倫理への関心の高まりとともに近年注目されている「技術者」概念にリンクしたものである。技術者倫理では、人工物を技術者によるある種の行為の部分を構成するものとみなし、設計や製作に携わる技術者たち(あるいはメーカー)はこれを媒介として、ユーザーや社会に対して間接的な行為をなし、その行為について責任をとらなければならないという考えが一般的になっている。この考え方は、素朴な形でPL法(製造物責任法)に取り入れられており、またこの考えをベースに「技術士」認定基準が改訂され、技術者教育の再構築が急がれているのである。技術者たちは協同して人工物を作り出す。やさしいことばのやさしさがそのことばを生み出した発話者の力としてのこころに帰属されるなら、やさしい商品のやさしさはそれを作り出した技術者たちが協同で実現している力に帰属されるのである。この力がテクノロジーである。

 

この力は、人工物を作り出す力であり、それは単にものを変形するといういみでの物理的な力ではなく、そのモノの使われる目的や場面を推測し、産業社会のルールや常識、ユーザーの生活を想像し、それを考慮しつつ人工物を設計し、製作する力のことである。この力がやさしいものであるためには「思いやり」や「意識」のような働きを前提とするだろうが、これらの担い手たる「こころ」に相当するものを、技術者たちは協同で実現しているのである。

 

以上の分析で、「テクノロジー」は技術者たちが協同で実現しているある種の力であり、この力が人工物享受者の自由や安心を能動的に確保・推進の手助けをするとき、そのテクノロジーは文字通り「やさしい」と言いうることが示されたと思われる。私が最初に持った「やさしいテクノロジー」ってどういうことだろうという疑問には、ごく大雑把にではあるが解答が得られたように思う。

 

もちろん、このように「テクノロジー」「やさしさ」ということばを用いることが可能でありかつそう用いられている局面があるからと言って、そう用いるべきかどうかはわれわれの社会の自由な選択である。私は、以下でこのようないみでの「やさしいテクノロジー」という捉え方が有効でもあることを示し、簡単に宣伝しておきたい。

 

チャップリンの「モダンタイムズ」以来、テクノロジーには人間性を抑圧し破壊する危険が指摘されてきた。同時に、テクノロジーは人間の生活を安全で便利なものにし、より人間的で豊かな生活を実現する手助けをするものとして肯定的にも捉えられてきた。

実際、現代テクノロジーは、必ずしもひとびとに手ばなしで歓迎されて成長してきたのではない。一方には確かにテクノロジーにより豊かで幸せな生活を夢見る「引き」の作用があったが、他方にはテクノロジーを文化と生活の破壊者とみなすが競争に負けないためにやむを得ず採用するという「押し」の作用によっても現代のテクノロジーは育てられてきたのである。核兵器などはこの後者の作用が大部分を負っている負のテクノロジーであったと言えるだろう。

 

多くの技術は負の作用から生み出されて、それを人間的なものにするために多くの犠牲と多くの努力を要求してきた。また、生活を豊かにするものとして歓迎されて現れたテクノロジーも、人間的な生活を押しつぶしたり破壊したりする危険をわれわれに突きつけてきたのも周知の通りである。現代は、核技術の問題のほか、環境問題や安全性の問題、人間疎外の問題や伝統文化の問題など、人間性や人間存在とテクノロジーの関係がクリティカルに問われる領域をずいぶん抱え込んでしまった。近年急速に発達してわれわれの生活を大きく変容させている情報技術(IT)もまた、これを人間の生活を豊かにするテクノロジーとなるか、どうすれば人間性に寄与する技術となりうるかが危急の課題として問われているのである。

 

ちょっと余談になるが、技術めぐる意識を歴史的に概観してみると次のようにも総括できるだろう。19世紀が現代技術を支える自然科学の諸理論の整備に関心が向いていた時代だとすると、20世紀は技術を支える産業社会構造の整備が焦点となった時代と見ることができる。そして21世紀はおそらくテクノロジーとなった技術における人間性の問題が主題となる時代となろう。現在の技術者は、科学理論だけでなく法や経済などの社会的センスが要求されている(日本の大学工学部の教育がこのニーズに応えられているとは思えない)が、これからは倫理や歴史などの人文学的センスがさらに求められることになろう。

 

人間性を実現するようなテクノロジーのありかた、それが技術をめぐる21世紀の重要な課題である。そこで、「やさしいテクノロジー」という概念は、この問題を考える上で重要な手がかりになることが期待される。というのは、テクノロジーの持つことが期待されている「やさしさ」とは、ユーザーの自由や安心を実現することに貢献するものであり、自由や安心は人間的な生活、人間性の尊重において、欠くべからざる重要な要素だからである。どのようなテクノロジーが、どのように人間性の実現に寄与しうるのか。それを考えるとき、「やさしいテクノロジー」の概念を分析・整理して提案することが、人間的なテクノロジーの理念への道すじを構成するものであることは疑いあるまい。

 

 

以上で、ひとまず筆をおく。この考察は一つの取り付き点にすぎず、ともかくここから登りだしてみようというものである。今後の道すじとしては、まず「やさしさ」概念について、一般的・人文学的な見地から深める必要があろう。これについては、資料ばかりあたるのではなく、自分の普段の生活からいかに紡ぎ出すかが大切である。文献的実証的学問的研究にも価値を認めるが、それだけでは片手落ちというより本質を全く欠くものとなるだろう。なぜなら、それは絵に書いたモチだけを材料に、モチのよりよい料理の仕方を考えるのと同じことだからだ。そのような一般的考察と同時に、個々のテクノロジーの実例により即してそこでどうこの「やさしさ」が実現されているか、あるいはされうるか、そのような具体的な評価と提案していく作業も必要だろう。これは、たんに個々のテクノロジーについてよりよいありかたを模索するという作業に止まらず、テクノロジーとともにある現代の人間の幸せについて考えを深めることである。ここにもやはり、テクノロジーを実際に使って感じる経験、そしてテクノロジーを作る現場に即して考えていく必要があるだろう。

 

 

参考文献として示すべき論文などは特にない。あえてクレジットを示しておくなら、冒頭に掲げた写真の大文字山と京都周辺の小道、宮崎駿氏やチャップリンの一連の問題提起的な作品、関西工学倫理研究会でのやりとり、関西大学・龍谷大学・京都コンピュータ学院での授業ということになろう。