宮崎駿『ナウシカ』『もののけ姫』における技術・自然・人間

平成17126日 吉田寛

 

本論考の方法と目的

本論考では、宮崎駿のアニメ映画『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』のストーリーを分析して宮崎の理想とする自然-技術-人間観を抽出し、これを簡単に批判・検討する。このような作業を通じて、現代社会において求められるべき自然と技術と人間の適切な関係をイメージしたい。

 

『ナウシカ』と『もののけ姫』のメッセージ性

両作品は多くの点で類似した構造を持つ。例えば、登場人物などの配置に着目するなら、ナウシカ−もののけ姫、クシャナ−烏帽子御前、アスベル−アシタカ、ユパ−ジコ坊、オーム−いのししや山犬神、腐海−森、などの対応が見られる。各人物たちにはそれぞれ特徴的な性格や思想が割り与えられており、物語世界における彼らの言動は特定の自然観・技術観・人間観の表現であると見なすことができる。

人物たちは、事件や経験によって当初とは別の新たな性格ないし思想に到達する。観客もまた物語のストーリーを登場人物たちと共にたどることで、彼らと共に新しい観方へと導かれる。それが宮崎作品のメッセージとなる。

 

アスベルとアシタカ

さて、両作品から宮崎のメッセージを読み取るに当たって筆者が特に注目したいのは、物語の進行に伴った登場人物たちの性格や行動の変化である。ここでは、特に変化の著しい人物として、『ナウシカ』におけるアスベル、『もののけ姫』におけるアシタカに注目したい。

アスベルは、技術国ペジテにおける若き技術者かつパイロットとして登場する。ペジテは腐海と敵国に脅かされ存亡の危機にある。アスベルは、技術によって敵国を撃退し、そして技術によって腐海(=恐ろしい自然)を征服することで、存続の可能性を切り開くことを考えている。しかしその戦いにおいて、彼の肉親は失われ国は滅び、利用しようとした隣国のナウシカたちに助けられ、そして滅ぼすべきと考えられていた自然が実は自分たちを支えていることを知る。そこでアスベルは、ナウシカの立場――すなわち戦いを拒み自然に心を開き「やさしい技術」のみを限定的に使用しようとするあり方――に近づき、ただ技術に頼って事態を打開しようとする最初の態度を放棄する。

アシタカは、縄文風の生活を守る村――技術を避け「死」も含んだ自然を尊重しつつもそこで滅びようとしている――の出身である。たたり神との戦いで不条理な「死」を刻印され、しかもその死を受け止め立ち向かうために村を出る。だから彼は、タタラ場における「死」を含んだ自然と「死」と戦う技術の戦いにおいて、問題の本質を見極めて意思決定するという課題を担わされているのである。戦いは、技術によって自然から力を奪い「死」を避けようとする人々と、「死」を含んだ自然の摂理を純粋に守ろうとするもののけ達との間で行われる。アシタカは、自然を尊重する立場にとどまりつつも、技術によって病気や貧困などの過酷な運命と闘い未来を切り開こうとするタタラ場の人々にも心ひかれていく。しかし、そこで彼の自然への共感は理解されず、異端として瀕死の傷を負わされる。彼はもののけ姫と自然の神によって救われるが、そこでも受け入れられず森を追い出されることになる。戦いは激化し、森とタタラ場の両方が傷つき失われていく。その中で、アシタカは森とタタラ場、もののけ姫と烏帽子御前の両者を救うべく自らを忘れて奮闘する。結果、彼は自らの命を救い、傷ついた自然と文明の両側から受け入れられる存在となる。

 

宮崎のメッセージ

『ナウシカ』においては、アスベルの態度の変化が、この物語の主要なメッセージを生み出していると思われる。すなわち、自然を軽視し無制限に技術に頼ろうとする態度を批判し、自然を尊重し「やさしい技術」のみを使う態度が勧めていると見なすことができるだろう。戦闘機に乗って登場し腐海へと墜落したアスベルの、エンディングでは馬に乗って腐海に入っていくという姿が、そして再生し腐海と本質的な関係を取り結んだ希望ある生の場としての「風の谷」の情景が、このメッセージを象徴している。

『もののけ姫』においては、アシタカの変化・選択が物語の、そして観客のたどる道筋である。アシタカの出身の村は、「やさしい技術」のみを使う自然親和的な世界であり、その意味で、『ナウシカ』においてアスベルが最後にたどり着いた地点であると見なしうる。つまり、『もののけ姫』のメッセージは、『ナウシカ』の思想をさらに押し進めて深めたものであると言えるだろう。『ナウシカ』であれば結論とされたかもしれないアシタカの平和な村は、しだいに衰え滅びつつある命として描かれ、また傷を負ったアシタカを救う力もない。そこでアシタカは、技術を利用しつつ「死」と戦うタタラ場の人々の立場に近づきつつも、なお自然への尊敬を手放すこともなく、孤軍奮闘する。その結果、それが最後には彼自身の命を救い、もののけ姫と烏帽子御前の両者から大きな共感を得て、森とタタラ場の未来、そして両者のよりよい関係についてなにがしかの希望を感じさせるエンディングに至るのである。

宮崎はこう言いたいのではないだろうか。人は生きようとする。技術に頼っても懸命に生きようとする。その姿を否定することはできない。だが、自然への尊重を忘れて、また互いに争って、技術によってただ自然から力を奪い取ろうとするなら、破滅をもたらすだけである。われわれは、どちらかを切り捨てることなく、調和する道を求めて、ただアシタカのように自己の「死」を恐れずにベストを尽くすしかない。

 

コメント

最後に、上にまとめた宮崎のメッセージに対して観単にコメントしておきたい。しばしば、『もののけ姫』は分かりにくいという評を聞く。『ナウシカ』はいわば大きな物語を提出しようとしていた。希望をもって「風の谷」のような自然親和的なあり方を目指そうという、いわば一方向的なイデオロギーを提示していたと言える。これに対して『もののけ姫』は、さまざまな立場・さまざまな観点が示され、それらの「統一」ではなく、「調和」が求められていると言えるだろう。この点は、確かに宮崎のメッセージを一見分かりにくくしているが、私にとってはより興味深くまた強く共感できる点である。マンガ版の『ナウシカ』では、たとえばオームも視点、クシャナの視点、巨神兵や科学者たちの視点などさまざまな視点がそれぞれ自律的に成立し、ナウシカは「風の谷」の視点をルーツにしつつも、これらの多様な視点を紹介し際立たせ調和する役割を担っているということをつけ加えておこう。

この意味で筆者は、アシタカの基本的な態度や立場には強く共感できる。アシタカは、どれかを切り捨ててどれかを選ぶのではなく、それぞれの立場に理解を示し、調和を求めて物語を結び付ける糸の役割を果たすのだから。ただ、彼のように「生」と「死」、「技術」と「自然」の二極の間でめくらめっぽうに走り回っていても、この社会に希望がもたらされるとはあまり思えない。確かに、自己の生命への執着は人間の業であり、争いや、技術への過度の依存を生む大きな原因であろう。だが、現代はもっと複雑な時代であり、人は単に自己の生命のためだけに争い技術を使うのではない。現代人は社会の生み出すさまざまな価値観――自己意識の資本主義的展開とでもいうべき多様な商品価値――に急き立てられて生きているのであり、そこで自己と自己を支える仲間や文化、そして自然を踏みにじりながら、自己の拡大と技術の進歩を不朽に追及する存在となっているのである。われわれは、その絡み合った鎖をひとつひとつ丹念に、しかもある程度の見通しと戦略を持って追いかけ解きほぐし、それらを「統一」する「目的」ではなくとも何らかの「方針」を持って、これらを調和的に結びつけ直す道を探すしかないだろう。